- そもそも「エスノメソドロジー」とは?
- エスノメソドロジーで用いられる“手法”
- エスノメソドロジーが明らかにしようとしていること
- エスノメソドロジーの視点で捉えた「心」とは
- 今後の展望
「行われていること」であれば何でも議論の上に乗ってきます。
ー最終的にエスノメソドロジーが明らかにしようとしていることは何なのでしょうか。
西阪仰氏(以下敬称略):最初のガーフィンケルの比喩に関わってくると思うのですが、細かいことが社会を支えているのであって、そこから何か一般性を見つけようとすると、逆に社会を支えているものを見失ってしまうんじゃないかということなんです。
ーエスノグラフィー的な目線では、細かいことの集積から共通項を見出し、『これが実は社会を支えている見えない構造なんだ』と言いたくなるのですが、エスノメソドロジーでは、細かいことは細かいこととして置いておいてどんどん集積していくということでしょうか。
西阪:そうですね。でも、ただ集めればいいというものではないんです。少なくとも集めることができるということは、何かが認識できて何かを基準に集めているわけです。ということは、その事実を集めるための独特のメソドロジーがあるはずだし、自分たちが集積したものの中にも何らかの秩序があって、その秩序を支えているメソドロジーがあるはずだから、それをきちっと解明しておくということになると思うんです。エスノグラファーたちは基本的に取材の段階では細かいことを集めてきて、次の段階では割と大きな枠組みで分析します。エスノメソドロジーから見たら、そこにある様々なメソドロジーあるいは手続き、ルールみたいなものをもっときちっと見ていくことが必要なんじゃないかというようなことになると思うんです。
ーエスノメソドロジーが取り扱うものの傾向、分野みたいなものはありますか?
西阪:一つは、とにかく行われていることであれば何でもです。例えば『何か行われている』と認識できるということは、そこには既に秩序があるはずです。だからそれがピアノを弾くことであれ、ジャズであれ、あるいは買い物をすることであれ当てはまります。『買い物が買い物であるということが、どう成立しているのか』という問いが立つんです。そういう意味で、何でも議論の上に乗ってきます。もう一つの答え方としては、アルカイックなテクノロジーが語りやすい場所というのがあって、その一つが科学なんです。科学研究というのは合理的で客観的というイメージがあるし、実際のプロダクトはそういうものとしてできています。が、そのプロダクトができるまでの過程においては、先ほどお話ししたような様々なプラクティス抜きにしてはあり得ないんです。よって、科学的実践というのがエスノメソドロジーの得意な分野(行為)になっています。
それともう一つは、本当にどうでも良い日常的なもの、その代表として「おしゃべり」があります。まったくどうでもよいおしゃべりも、実は精巧に組み立てられているということ、これを示すことの意義は、やはり大きいと思います。先に述べた録音技術のことだけではなく、電話での会話というのがフィールドとして選ばれたというのは偶然ではないし、そこで洗練された、エスノメソドロジーのためのメソドロジーが出てきたというのもやっぱり偶然ではないと思うんですよね。エスノメソドロジーが取り扱うものの傾向というと、会話と科学研究をまず挙げることができると思います。
ーエスノメソドロジーでの成果は、最終的にどのような形で表わされるのでしょうか。
西阪:難しい質問ですね。会話分析の場合は、「順番交代のやりかた」※とか、名前で表現できるものが多いんです。特に会話分析の場合には、マシナリー(装置)とかメカニズムとかという言い方をしますが、何かその会話自体が持っている、人間が動かしているのではなくてむしろ逆に人間を動かしているようなマシナリーがあると。例えば順番交代もマシナリーによって、例えば「順番交代」のためのルールによって動かされていますよね。そういうマシナリーが明らかになるという言い方が、会話分析の場合は可能なんだけれど、エスノメソドロジストは必ずしもそうではないんです。ただ、ガーフィンケルがハーヴィ・サックスと共に書いた論文があるんですが、そこで「自然言語の習熟」について話しています。『自然言語に習熟していることそのことが社会の成員である』と。『社会の成員が自然言語に習熟する』という言い方ではなくて、『自然言語への習熟が社会の成員である』という言い方は、やっぱりどちらかというと、自然言語のマシナリーみたいなものがあって、それによって人の活動が動かされて、人が配置されていくといったイメージに近いような気がします。
※順番交代…会話をおこなうにあたっての欠かすことのできない、基本的な手続き。会話では、話し手となることができるのはその都度一人だけであり、誰かが話し手になっているときには他の人は聞き手になり、次に別の誰かが話し手になれば、今まで話し手だった人は聞き手になるというように、発言の順番交代があるというもの。
西阪:エスノメソドロジーの中でそういうふうに名前で表現できるような知見として、例えば…なんだろう、今ふと思いついたけど名前がない(笑)。例えば、これは名前といって良いのかわからないけれど、「レーベンスヴェルト(生活世界)・ペア」というのがあります。ピタゴラスの定理の証明の図の場合、その図自体は何かを説明しているという点では意味をもった成果物ですが、一方でそれを証明として理解するためにはそれぞれの線や角度の意味を読み解く作業が必要ですよね。つまりこの図が何かの証明として成立していることは、もう一方のごちゃごちゃした作業の過程と切り離せないじゃないですか。それをレーベンスヴェルト・ペアと呼ぶんです。ごちゃごちゃやった作業の過程に価値があるということなんです。成果物の方をフォーマルアカウント(fomal account)、過程の方をリブドワーク(lived work)と呼んだりするのですが、生きられた(lived)作業とでもいうのでしょうかね。
ーそういう知見みたいなことを成果として『こういうことが分かった』という話になってくるのですか。
西阪:そうですね。でもすごく一般的すぎるのでこれを成果というのかどうか(笑)。エスノメソドロジーでは、会話分析が名前をつけて呼んだような形での成果というのは難しいでしょうね。だからレーベンスヴェルト・ペアみたいなものをその個別の領域に置いてどういうふうに記述をしていくかといった感じでしょうか。
エスノメソドロジーは個別性に向かっているので、一般理論のようなものがないんです。一般的なフレームワークを持たないんです。ただ、だからといって理論が全然ないというとちょっと語弊があるんですよ。エスノメソドロジーの基本的な態度というのは、ある種の哲学の上に乗っているので。
ー分析で出てきたフレームワークで他もいろいろ説明できる「抽象化された理論」というよりは、それによって他もいろいろ分析ができる「方法」のようなものが出てくるみたいな感じですよね。
西阪:そうですね。だから、「理論」と呼ぶよりは「態度」と呼ぶのが適切だと思うんです。
ーフレームワーク的な、「モデル化する」とかいうのとは少し違いますものね。
ーでは、エスノメソドロジーはどのように実践に結び付けられるでしょうか。
西阪:言ってみれば、私たちが既に知っていることを明らかにしているだけなので、どういうふうに実践に結び付けるかというのは、どうしても難しい課題ですよね。とはいえ、言語学もある意味同じです。私たちは言語をしゃべれますから。だからあえて実践に結び付けるとしたら、例えば言語学が日本語の言語構造や文法を明らかにすることによって、それを日本語教育に役立てることができるのと同じように、何かの活動のエスノメソドロジーなり会話分析がその活動の構造を明らかにすることで、その活動へ入っていこうとする人たちや教育をしようとする人たちの役に立つということがあり得るのかなとは思います。
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